読書日記を感想文的に書き綴っています。「お知らせ」には日々の雑感、興味のある分野を記載しています。
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3.24(月)読了
紛争ジャーナリストの佐藤氏の取材記録。 佐藤氏はアフガニスタンでビデオカメラを含むすべての荷物を奪われます。それまでの1ヶ月に及ぶ取材記録を失ったことを契機に、映像がダメなら活字で、と思い書いたのが本書。戦場でも人間はメシを食う、ということで、紛争地帯の兵士や住民の食生活に焦点をあてて書かれています。 アフガニスタン、サラエボ、アルバニア、チェチェン、アチェ、イラクなど、現在も紛争が継続している地域を多数訪れ、取材を敢行しています。イラクにはイラク戦争が勃発した時にバグダッドで取材を行っている。さらに、復興での自衛隊の活動なども取材している。それによると、現地の人たちの生の声は、自衛隊は米兵に比べると礼儀正しく活動しているが、兵舎に篭りっきりで、実際に人々のためになる活動はしていないということです。自衛隊も制約が多いので、仕方がないのかもしれません。 いまだ紛争は各地で続いていますが、いつかは終息に向かうことを願います。 PR
3.23(日)読了
小児ガンに冒されている9歳の子どもへの、キューブラー・ロスの返事の手紙。 余命3ヶ月と宣告された小児ガンを患っているダギーは、周りの大人が死についてなにも教えてくれないので、医学博士のキューブラー・ロスに手紙を書きます。それは、命とはなにか、死とはなにか、そしてなぜ子どもが死ななければならないか、という内容のものです。ロスは非常に心をうたれ、娘のフェルトペンを使い、簡単な言葉にカラフルなイラストをそえて、ダギーへの返事を書きました。 子どもにもわかる平易な文章で、人間はなぜ生きるか、なぜ死ぬか、死とはどういうことか、ということが書かれています。どのような状況にあろうとも、神様はすべてを知り、無条件の愛を送ってくれています。なぜならば神とは愛の名だからです。神は愛しか知りません。神は差別をしません。神はすべてを知っています。すべての子どもを大切に思っています。だから、人生には偶然というものはありません。 本には英語の原文も書かれていて、とても平易な文章なので、こちらで読んでもいいと思います。ロスのカラフルなイラストもとても美しいです。 余命3ヶ月の宣告を受けたダギーは、医者の予想を大幅にくつがえし、13歳まで生き永らえました。 キューブラー・ロスは「On Death and Dying(死の瞬間)」という本を出して、その業績が世界的に認められた医学博士です。また、彼女は、アメリカ・ホスピス運動の思想的な指導者として、また死の神秘をさぐるひとつの試み、「臨死体験」研究のパイオニアとしても活躍されています。
3.23(日)読了
大学教授で精神科医の、小田晋氏のうつに関する本。 うつについての基本的な情報や心構え、周囲の人の対処法などが書かれています。文字も普通の本より大きく、行間も広くとってあるため、うつ状態の人や老眼が入っている方にも読みやすくなっています。とても親切な配慮と思います。 うつになりやすい時期というものがあって、春先と秋口がそれだそうです。 人間はストレスを受けると、コルチゾンというホルモンを放出しますが、春先と秋口にはコルチゾンレベルが高くなるそうです。その結果、鬱になりやすくなります。また、気圧が鬱に関係しているという話を聞いたことがありますが、これは日照の多寡のことをいっているのでしょうか? 日照時間の少なくなる時期にかかりやすい「季節性うつ病」というのがありますが、日照も鬱と関係しています。その場合の治療法には、高照度光療法というものがあります。これは非常に明るい蛍光灯の光を毎日1時間浴びるというものです。ホルモン関係を治療する方法ですね。ドイツという国はほぼ1年中曇っていて、晴れている日がほとんどない、天候に関しては陰鬱な国です。それと関係があるのか、ドイツ人の国民性は真面目で、言葉がわるいですが、若干の陰鬱傾向が見受けられます。その逆はイタリアです。地中海地方特有の圧倒的な太陽の日差しの下、あのような陽気な国民性ができあがりました。好対照な2国ですね。 鬱状態の人に対してタブーなのは、「頑張れ」という言葉です。鬱になっている人は、車に例えるとガス欠の状態にあり、頑張りたくても頑張れないのです。もともと真面目で責任感のある人が罹患しやすい病気なので、励ましは逆効果になります。鬱になったら、本人は充分な休養と睡眠を、周りの人は温かい目でみてあげることが大切です。また、鬱状態の人は自殺を図る危険性があります。鬱のどん底に入っている人は、自殺をする気力もなく、ただ横たわっているだけのことが多いですが、危険なのは鬱に罹ったばかりの人や、治りかけの人です。これらの人は、鬱ではあるが、まだガソリンが残っている状態の人といえます。その状態の人は自殺をする気力がまだあるので、実行してしまう人も出てくるのです。そのような状態になったら、速やかに病院に行き、医師の適切な治療や意見を仰ぐことをお勧めします。 鬱は服薬やその他の治療で、確実に良くなる病気です。もし、鬱かな? と思ったら、精神科や心療内科で相談するのが吉です。 日本にはまだ、精神関係の病気に対して根強い偏見があります。しかし、欧米では精神科やカウンセリングにかかることは、一種のステータスとさえなっています。日本もそのようになればいいなと思います。
3.21(金)読了
<あらすじ> 嵐の晩、一匹の子ネコが彷徨っている。森で迷ったのだ。ネコの名前はシャルダン。父親を憎み、探し出して仕返しをしようと旅をしている。朝になって、森の中のペンションにたどりつく。そこにはネコのタマとミケがいた。シャルダンは食事をもらい、旅をしていることを言う。タマは一緒に旅をしてあげるといい、ミケもしかたなくついていくことにする。いつも自分勝手なタマにミケは不満を持っていた。タマと離れる方がいいかもしれないと思い、今回の旅でそれをじっくり考えることにする。 旅の途中、キツネのスターン、宇宙の騎士と呼ばれているクランツというネコと出会い、ともに旅をすることになる。クランツはいつも「汝、幸か不幸か」と問いかける変わったネコだ。昔、クランツは怖いもの知らずで、嫁さんを連れて森を冒険している途中に、嫁さんが犬に襲われて殺されてしまうという目にあっている。それから、そのようになってしまったらしい。クランツにシャルダンは不幸だと言われる。怒りをもっているからだ。 迷いの森を抜ける一歩手前で、シャルダンは犬に襲われる。瞬間、クランツが犬に飛び掛り、激しい戦いになる。犬は去っていったが、クランツは傷だらけになる。シャルダンに、怒りをなくし、強くなくてもいいから、やさしいネコでいなさい、と言い、クランツは死ぬ。クランツを埋め、その夜はクランツの話をしながら眠りに入った。 翌日、無事に迷いの森を抜けた4匹だった。シャルダンは父親を憎んで旅をすることがバカらしく思い、みんなにそのことを告げる。みんなそれを嬉しそうに聞く。そして、4匹は自分達が来た印として、布を木に巻きつけて旗を作り、掲げる。ミケはタマとの楽しい日々に思い至り、これからもタマと一緒にいようと思う。シャルダンは多くの動物と出会う旅に出発し、スターンも戻る。タマとミケも家に帰っていった。 時は流れた。嵐の夜。森の中。激しい風雨に逆らい、一匹の立派なネコがタマとミケに会うために、その場所へ戻ってきた。あの時のように、彼らはきっといるだろう。 それぞれのネコの生きる道、生きる理由を巡っての旅の物語。 なんのために生きるのか、どうすれば幸せになれるのか、ということが、それぞれのネコたちの性格や、決断から見て取ることができます。怒りにかられて復讐に燃える者、後悔の念を抱き生きる者、楽天的に日々を暮らす者、生き方はそれぞれの自由ですが、より幸せになる生き方というものがあると、本書では説いているようです。作中ではシャルダンを救うため、犬に殺されたクランツも、過去の後悔を払拭して死んでいったのではないでしょうか。その意味では、本望ではなかったかと思います。死して屍拾う者有り、だったのですから。 と てもポジティブで、前向きな物語です。ラストも良い感じで終わっています。読後感、良。
3.20(木)読了
タイトル通り、小説の書き方や新人賞の通り方(か?)が書かれています。 この手の本はほとんど読んだことがないのですが、とてもおもしろいです。例として、小説を書くのに特に大事なのは、「視点」だそうです。 新人賞の予選委員は、①視点が定まっているか②心理描写③情景描写の3点を一番最初にみて(パラパラめくって)、読むに値する作品かどうかの目安をつけるのだそうです。パラパラめくって、わずか20~30秒で駄作の烙印を押された作品は、斜め読みなどをされ、適当に扱われます。OKの作品は、おもむろに最初のページから、とりあえずは読んでくれます。 「視点」。まずはその作品が1人称か3人称かなど。特殊なものに神の視点。3人称の場合、作品のその時点では誰の視点であるか? 主人公の視点か、サブキャラの視点かなど。例を挙げると、主人公Aの視点で書いているのに、「Bは力いっぱいボールを投げた」という文章を書いてしまったら、致命的です。なぜAはBが「力いっぱい」ボールを投げたとわかるのでしょうか? わかりませんね。この1文だけで、素人ということがわかっていまいます、と書かれています。 神の視点というのは、簡単にいえばカメラアングルだそうです。登場人物目線ではなくて、物語全体を観ている視点。映画目線、夢目線、客観的目線のことです。「この行為が5年後、人生をおもわぬ方向に導くとは、沙耶は予想もしなかった」というのも神の視点です。難しい。 その他、小説を書きたいと思っている人、書いている人にも、参考になることがたくさん書かれています。作家の頭の中を見透かせるような気がして、こういう本は好きです。本を書く人の「視点」から読書をするのも、また面白いと思います。
3.19(水)読了
村上朝日堂シリーズのおそらく第一作。 1983年~1988年の5年間のことをエッセイにしています。新しいものから古い方へ、村上氏のエッセイを読んでいったのですが(意図はない)、やはり、初期のエッセイということもあるのか、文章に若干、力が入っているような気がします。リキみ過ぎかな、という意味です。漫画家の場合は、最初の方はディティールがびしっと描かれているけど、5年、10年と連載を重ねていくうちに、だんだんシンプルになっていき、よりよい画になることが多いと聞いたことがあります。「こち亀」や「ゴルゴ13」などですね。「シティーハンター」もそうだったかなぁ。でも「ドラゴンボール」はあまり画が変わらなかった気がする。鳥山明の画風はアラレちゃんで固まったのかなぁ。「パタリロ」全巻一気読みしたいなぁ……。 閑話休題。村上氏の群像新人賞を獲った作品、「風の歌を聴け」を探しています。図書館にはありません(なにゆえ)。古本屋で105円であれば買うのですが、なぜか300円くらいします。それを読んだら「羊をめぐる冒険」「1973年のピンボール」と、ちゃんと時代を追って読みたいのに、最初の作品が無い無い無い。忘れた頃に手に入る、ということで気長に待とうと思います。
3.19(水)読了
医学博士の森昭雄のゲーム脳に関する著書。 脳波のうちα派よりβ派の方が低下する状態を「ゲーム脳」と名付ける。コンピュータをはじめとした、ブラウン管やブラウザに長時間接する人々の脳は「ゲーム脳」となり、痴呆の人の脳波と酷似しているとのこと。特に、精神活動をしたり、計算、思考に関する前頭前野(げ特に右脳)の働きが痴呆の人と酷似してしまうそうです。写真つきで脳波を計測したものが公開されていますが、テレビ、パソコン、ケータイメール、ゲーム、(紙の)漫画を読むことなどはいずれも脳がほとんど活性化されません。漫画を読む、などは脳の動きはほぼ皆無です。「読むのではなく眺めるといった感じでしょう、その証拠に、視覚に関する脳の後頭部がほんの少しだけ働きます。漫画ばかり読んでたらバカになるよ!」というのは、あながち間違いではないようです。テレビもしかり。パソコン、ゲーム、テレビなどを毎日長時間みる人は、漫画もたくさん読む(活字本をあまり読まない)というデータもあります。ゲーム脳の人は集中力が低下するので、活字を読むのが億劫になるのですね。単に漫画好きという理由もあるでしょうが。 ゲーム脳になると、精神活動は低下し、最悪、会話の成立が困難にさえなります。一日中ぼーっとした状態になり、記憶力は低下し(痴呆状態)、仕事や学業は困難となり、キレやすくなり、笑顔がなくなり、能面面になります。あれ、これってうつ状態と似ているのでは?長時間ゲームをしていたら鬱になる。うん、ありうる。 幼い子に、子守唄代わりにテレビを見させるのは、最悪です。2週間の入院期間にずっとテレビを見せていたら、話せていた子が話せなくなったという事例もあります。脳に悪いのです。 ゲーム脳を改善させる方法をいくつか提示されています。 一番良いのはテレビ、ゲーム、パソコンなどをやめることですが、これは現代ではなかなか難しいでしょう。まずこれらを少なくしましょう。それ以外は、 1.紙の本の読書・・・毎日、30分以上は読書をすること。ゲーム脳の人は集中力が低下しているので、難しい かもしれませんが、頑張って続けること。 2.音楽を聴く・・・特にノリが良く、リズムがはっきりしていて、テンポが速い曲。F分の1のゆらぎの曲などは、脳がリラックスするだけで、活性化にはあまり意味がありません。ロックなどどうでしょう? 3.全身を動かす運動・・・散歩、ジョギング、自転車こぎなどを1日30分以上。β派が増加し、快感物質のセロトニンも放出されます。 4.お手玉・・・3つ以上のお手玉を毎日5分以上する。集中力が必要な作業なので、脳がフル回転します。前頭前野もしかりです。最強の方法らしいです。バリエーションとしては、集中力が必要な作業、コインを重ねたりなどです、がいいです。ベータ派がうなぎのぼりします。ちなみに、お手玉してる姿をイメージするだけでも、脳はかなり活性化されます。時間が無いときはその方法で。 さらに、コンピュータ(ブラウザ)関係は画面の光がが強すぎるのも、脳が活性化されない原因ではといわれています。目と脳に優しくないのですね。電子ブックを読んでも脳は活性化されません。 せめてもの対策として、サングラスをかけてパソコンをするというのはどうでしょう。たったいま、実践中です。確かに楽なような気がする。特に夜はこの方法で、脳を守ろう。保護シートのようなものは売っていないのかな(←ホームセンターで2000円でありました!)。今度、ダイソーで探してみよう。 ちなみにこのゲーム脳、反説が出るのは世の常であり、他の本ではあまり心配することはないと書いていました。うーん、実際のところはどうなのでしょうか?
3.18(火)読了
森博嗣氏のMシリーズ第1作目。5つの短編からなっています。 N大学工学部の水柿助教授の日常的なミステリィを描いています。ちなみに水柿助教授≒森博嗣であることは言うまでもありません。最初の1作品だけは、それなりにミステリィをしていますが、それ以降は、うーむ、エッセイ集に近いような感じです。そう、ほぼエッセイとして読んだほうがいい。 特徴的なことは、ミステリィを書く上でのヒントなどがいろいろ書かれていることです。トリックの種類や作り方、複線の貼り方などがちょこちょこ書かれていて面白い。森氏もわりとすらすら書けた作品では、と思います。この人、ものすごい早筆だから、1週間くらいで書き上げたのでは。1時間に原稿用紙20枚くらい書くみたいですよ。日記書くのと同じスピードだ。 森氏の特徴として、棒音(「ー」←これね)を使わずに半音のイ(「ィ」←これね)を使用するというのがあります(ミステリィなど)。これは文章の使用法の原則というものがあって、それに忠実に従ったら、「ー」ではなく「ィ」を使うのが正しい、とのことです。それ以外の単語ではあえて最後に「ー」を使わない。スーパーはスーパ。シーソーはシーソ。では沖縄のシーサーは? シーサ…わかりずらいなぁ。 工学博士らしい発想というか、非常にシステマティックです。 数年後には小説の執筆を辞めることを宣言されているそうですが、実はそれ自体がミステリィであって、あっと驚くことをされるのではないか、と期待もしています。
3.17(月)読了
1992~1993年の村上氏のエッセイ集。この頃はアメリカのプリンストン大学で大学院生相手に、週1コマの講師をしていた時期です。 例によってジャズ関係のエッセイが多いです。私はジャズはあまり知りませんが、好きな人は熱狂的に好きなんでしょうね。本の中で、古本屋や古い音楽店で昔のジャズレコードを漁るのが目下最大の癒し行為、というようなことが書かれていますが、この感覚はよくわかります。私も古本屋を漁るのが大好きですから。古本屋といえば、最近は「BOOK・OFF」や「古本市場」といったチェーン店が増えてきていて、その煽りで昔ながらの個人の古本屋が廃業に追い込まれています。私の母校の大学の近くでは、校門から駅までのわずか200メートルあまりの道に個人経営の古本屋が5つあったのですが、駅前に「BOOK・OFF」が進出してきたことにより、現在ではわずか1店舗に追い込まれてしまいました。別にチェーン店が嫌いというわけではないし、欲しい本が簡単に、それなりにリーズナブルな値段で購入できるという点はおおいに評価できます。学校帰りに毎日のように「BOOK・OFF」に寄っていたしね。しかし、やはり昔ながらの古本屋が好きです。あの古臭い店の雰囲気や個性味あふれる店主、店に寄って値段の違う古本を、最安値を探すために巡った日々の数々、他店で1000円で売っていた本をわずか50円で発見したときの興奮と感動。それらの記憶のひとつひとつがやさしく、ふんわりほっこりとした甘くて美味しい金時イモのように心をなごませてくれます。 ショックなことに、私の一番のお気に入りの古本屋がなくなっていました。つい最近、フラッと母校の大学にいき、帰りにその古本屋に寄ってみたのですが、無常にも一枚の張り紙が貼られているだけで、あの古くも楽しい大量の古書はすべて撤去されていました。 その古本屋は古い3階建ての建物の3階にあり「○○書房」という店名でした。古く、暗く、狭く、7坪あるかどうかといった店で、店主の懐古趣味なのか経費節約なのか(おそらく後者でしょう)店の明かりは裸電球1個でした。床はベニヤを貼っているだけかいうように、歩くたびにギシギシ音を立てて、いつ底が抜けるかとおっかなびっくり歩いていました。その名のとおり「歩くと危険」なお店でした。店内には大量の、大量の古本がアットランダムに詰まれていました。値段も古い文庫本は1冊5円から、ハードブックでも30円から売っていました。20冊購入しても100円です。用も無いのに店に寄って乱雑に積まれている古本を漁るのは得もいわれぬ快感があり、気がつくと1~2時間経過してしまいました。店主も小柄で無口ながら、しゃべると明るくて人懐っこさそうな60代の初老の男性で、いつもレジ(というか番台)の前で丸イスに座りながら古本を読んでいました。あぁ、この人は古本が好きで、古本を愛しているんだなぁ、といつもしみじみと感じていました。ほとんど話したことはありませんでしたが、この人が入院したときは人知れず心配し、お店が閉まっていたら、不況のあおりで潰れたのかしら、と心を揉んだものです。 そんな思い出のいっぱい詰まった、あの、古くて偉大な古本屋が……くっ(と涙をながす)。1分間くらい店の前で呆然と立ちすくしてしまいました。本当に残念です。1日でいいから、あの懐かしい店と店主に再会して、思い出の時間を過ごしたい……。 そしたら5円本を1000冊くらい買い占めてやるのに、チェッ!(雰囲気だいなし)
3.17(月)読了
<あらすじ> 小さい頃からおとなしく、感情の起伏が驚くほど少ない女の子。母親は心配して病院に連れていくが、知能には問題がない、この子の個性といわれる。成長してもなにに対しても興味がもてず、感情も涌かず、ひとりでぼんやりしているのが好きだった。ぼんやりと何時間でも過ごしていると、何時間でも飽きることがなかった。日々のせわしない生活があまりにも自分にあっておらず、親に心配をかけないように精一杯ついていこうとする。学校にも勉強にも、歩くスピードさえがんばって遅れないようにする。家に帰ってくると食事もせずに、ただただ寝て過ごした。この時間が彼女にとって唯一最大の幸福の瞬間だった。そんな彼女は痩せていて、まわりからはミイラ女と呼ばれるようになる。感受性が強く、まわりの感情を悪い磁場として捉えてしまい、ついに学校へいくことができなくなる。ひとりで家にいると落ち着く。ぼんやりと時間を過ごしていれば十分、幸せを感じた。 父は「いずれはひとりで生きなければならない。何がしたいかよく考えなさい」と言われるけれども、人はなにかしたいものがないといけないのだろうか? ただ生きているだけではいけないのだろうか? と考える。彼女は精一杯の努力をして、それでもこうなったのだった。ヒトはお金がないと生きていけない、つまり死だ。お金を稼げないと弱者だ。なんだ、生まれてきた目的はお金だったのか。だったら、生きていなくてもいいや。でも死にたくはない。このままの状態でいたいが、それは難しいことらしい。母は父と違い、このままの状態でいいと言ってくれる。うれしくて母に抱きつくと、母ははらはらと涙を流した。 そして日が昇り、風が吹き、日が沈むと30年の月日がたっていた。気がつくと、年老いた母が彼女の膝元で死んでいた。ミイラのようになっていた。彼女は何も食べていないので痩せこけていた。彼女は母親を上から抱きしめる。腐った臭いがした、それはなつかしいような臭いだだった。そして彼女にもお迎えがきた。彼女は天に上昇し、光の渦に入っていく。そして彼女は自分が誰だったのかをようやく思い出した。彼女は木霊だったのだ。樹齢2000年の杉の木だったのだ。かつて杉の木だったが彼女は、人間の伐採により切られ、その後は転生できる木がなくなってしまった。森が消えてしまったのだ。しかたなく人間に生まれ変わったが、木霊にヒトを生きることはできなかった。そして彼女は願う、今度こそ木に転生させてくださいと。その願いは叶えられ、一粒の種として生まれ変わる。種は成長して木となる。自然系のなかで貴重な循環を担うこととなる。彼女はただ、世界のバランスのために生きている。彼女は存在しているだけでよかった。そう、命はただ、存在していることだけで、ギフトなのです。 「転生」と主題は似ていますが、こちらの方がよりダイレクトに伝わってきます。 なぜ生きなければならないか、なんのために生きるのか、そして他人と同じ価値観で生きなければならないか、そのようなことに木霊の霊は悩みます。ヒトはそれぞれ生まれてきた理由も違えば、課題も異なります。ゆえに、同じような生き方をする必要はない、そのヒトの課題をクリアする、もしくはそのヒトにあった生き方をすればいいということでしょうか。 この作品でも人間の環境汚染、森の伐採により地球が泣いている姿が描かれています。 田口さんの作品には転生、環境汚染、他人とは違っている自分、などが描かれていて、著者の訴えたいことが明確です。非常に好感をもて、心に響いてきます。 |
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