読書日記を感想文的に書き綴っています。「お知らせ」には日々の雑感、興味のある分野を記載しています。
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3.31(月)読了
<あらすじ> 春に大きな木に宿った、葉っぱのフレディ。フレディは数え切れないほどの葉っぱに取り巻かれていた。フレディは葉っぱは、ひとつひとつ違うということを知った。日光浴のときは静かにして光合成をして、雨には身体を洗ってもらっていた。フレディの親友はダニエル。大きくて、物知りで、昔からいるような顔をしている。フレディは彼からいろいろ教えてもらった。木は倒れないこと、鳥がいること、月や星や太陽が秩序正しく空を回っていること、めぐりめぐる季節のことなどを。かんかん照りの夏の暑さは気持ちが良いです。人々は木陰を求めてやってきます。フレディはダニエルとともに、人のために木陰を作ってあげ、葉っぱをそよがせて涼しい風を送ってあげます。秋も10月の終わりになると、寒さがおそいます。葉っぱはみんなぶるぶる震えます。緑の葉っぱは一気に紅葉して、色とりどりになります。冬になると、風が吹き、つぎつぎに葉っぱが落ちていきます。フレディはこわいのです。死ぬのがこわいのです。ダニエルにいうと、まだ経験していないことはみんな怖いと感じる、でも世界は変化しつづけている、変化しないものはひとつもない、変化は自然なことだ。死も変化であり、自然なことだ、と教えてくれます。ダニエルに聞く、僕は生まれてきてよかったのだろうかと。ダニエルはうなずく。人間に木陰を作ったり、効用でみんなの目を楽しませたりした。とても楽しく、幸せだったと。 そしてダニエルもフレディも地に落ちる。痛くもなく怖くもなかった。気はがっしりしていて、たくましくみえた。これなら木は大丈夫だ、いのちは永遠に生き続けるんだ。葉は地に落ち、土に溶け込んで木を育てる力になる。大自然の設計図は寸分の狂いもなく、いのちを変化させ続けているのだ。そしてまた春がやってくる。 葉っぱに仮託して生と死を考えています。最後の部分の、「大自然は寸分の狂いもなく……」というのはよく聞く言葉ですが、これはある意味、当然のことかもしれません。ある事象が存在し、それが自然の中で(自然の定義もさまざまですが)変化をしていけば、結果的に狂いのない帰結が生じます。つまり、自然を媒介とすれば、物事はその方向に収斂されていくということです。 古典物理学(ニュートン物理学)において事象は予見不可能とされていましたが、近代物理学(量子力学)では、事象の予見は可能とされています。ある物事Aが起こった場合、最後はBに至るということを「予見」することはできます。ただ、AとBの事象間に無限ともいうべき(実際は有限、たとえ不可思議であろうと) 作用が発生するので、それら一つ一つを計算に入れて、Bという結論を導かなければなりません。 Aの事象を矢を放つ、Bの事象を矢が鹿に当たり死亡する、とします。AとBの間には無限に近い作用があります。風が吹いて矢がそれるかもしれない、体調が悪くて的を外すかもしれない、鹿に命中しても死なないかもしれないetc.etc...さまざまな作用があります。それらの事象を全て計算して結論を導けば、そのいずれかはB(矢が命中して鹿が死亡)となります。つまり予見可能です。ただ、無限に近い数の作用を計算しつくすのは事実上不可能なので、理論的には可能だけれども、実行はほぼ不可能といっていいと思います。 詳しく(正しく?)知りたい方は、ちゃんとした物理の本でもお読みくださいませ。 なんの話だっけ? 生と死だった。ひとつだけ確実だとすれば、全ては変化し続けるということだと思います。変化しないことは不可能です。不変は存在し得ません。なぜなら、不変という事象は不変そのもので一杯になっていて、不変以外(の存在)が入り込む余地(隙間)がないからです。不変という事象は一切から永遠に隔離されています。それはつまり、存在しないことと同意です。うーむ、哲学だ。屁理屈ともいえるかも。あっ、混沌に顔を書いたら死んじゃったという故事と一緒かな?(ぜんぜん違います) PR |
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